ボウイの氷室京介さんが昔不良だったという事は知る人ぞ知る話です。氷室さんは群馬県高崎市の出身で実家が肉屋でした。
子供の頃から既に喧嘩はよくしていたそうです。そして喧嘩が強いことでも有名ですがここ数年の間の氷室京介さんを見ているととてもそんな過去があったのかどうか信じられませんよね。
イメージはいい人という感じでとても喧嘩で人を傷つける様な雰囲気ではありません。むしろ優しくて他人を気遣う様な感じを受けます。
しかし過去の若い頃はやんちゃをしていたのは間違いはなさそうです。そこで今回はその氷室京介さんの過去について詳しく調べてみることにしました!
もくじ
氷室京介の若い頃は喧嘩最強だった?周りの人もあいつはヤバい…

氷室さんの若い頃の写真を入手しました。この写真を見るだけでもかなりヤバいことが伝わってきますよね(汗)
確かに近くにいたら自然と遠ざかると思います。
群馬県内では喧嘩が強いということで当時から知られた存在だったようです。そんな人物がのちのバンドで伝説になっていくのですから人生とはわからないものですね…
吉川晃司がプロと認めたぐらい喧嘩強かった!

吉川晃司さんと言えば歌手で芸能界の中でも喧嘩が強いと言われている人物です。その人から氷室京介さんは「ダメだよあんなの。路上のプロだもん」という発言が飛び出している程の強さなんだとか…
この発言は吉川晃司さんがバラエティ番組に出演した時に言った言葉で吉川晃司さんも芸能界で喧嘩が最強と言われている人です。
公になっている武勇伝も多いことで知られていることからこの発言からいかに氷室京介さんが強いかが伝わってくるようですね!
布袋寅泰が学生時代から怖くて避けていた!

当時は氷室京介さんがいたところは周りの人が危ないから遠回りするくらいだったんだとか…この言葉は地元が氷室さんと同じで学生時代をよく知っている布袋寅泰さんの言葉です。
この発言はまだBOØWY時代の時に布袋寅泰さんが発言した言葉でリアル感がありますよね(笑)また昔の氷室京介さんの印象については「ただただ、怖いだけですよ」と答えています。
ある時に高校を卒業した後に布袋寅泰が電話で氷室京介に呼び出されます。布袋さんは殴られると思ったそうですよ?それくらい当時から怖かったということですね。
しかし目的は違っていて氷室京介さんは新しく作るバンドに布袋さんを呼ぶ目的で呼び出していました。
地元は群馬県倉賀野町!現在の高崎市!

氷室京介さんの実家は群馬県高崎市内で実家は寺西精肉店をやっていました。
父親も元不良で教育方針は放任主義で氷室さんを育てていて氷室さんが何度も警察に捕まっても何も言わなかったそうです。
氷室さんは子供の頃から絵を描くの好きで上手で当時から才能みたいなのはあったようですね!氷室京介さんの出身中学校は地元の高崎市内の公立校の倉賀野中学校です。
中学時代もケンカをしていてバイクを乗り回したりもしていました!
週刊誌フライデーに『前科がある』と掲載された!

そういった過去があることから週刊誌には格好のネタとなってしまっていたようです。当時はまだネットはありませんでしたからある時に週刊誌によって過去に前科があって殺人罪があったと報道されています。
しかしこれはガセでこの週刊誌の報道を受けて氷室京介さんがライブのMCで「殺人罪の氷室京介です」とネタにしていたほどでした!
中学で上級生に絡まれて返り討ちに!そして喧嘩に目覚めた

氷室さんは中学校の入学式に着用していたズボンを改造していたために上級生の呼び出しを食らってしまいました。
そして不良たちに校舎の裏に呼び出されたんですがそれを返り討ちにしたことでケンカに目覚めてしまったんです。
それからというのものの高校に入ってからも喧嘩ばかりしていて入学してからも喧嘩していました。
喧嘩を売られたら必ず買うという事で周りからも恐れられていたのもわかりますね(笑)
写真は後列から右から2人目が氷室さんだと思うのですが周りの友達もかなり怖そうですね。氷室さんの周りには常にこういった仲間たちがいたんだと思います。
暴走族にも加入していた!

もちろん氷室さんの若い頃はそういった環境でしたから自然と流れで暴走族のブラックエンペラーの支部に加入していたようです。
バイクは中学の時に乗っていたそうですから不良=バイクというのはいかにも昔という感じがしますね。
ブラックエンペラーとは?

ブラックエンペラーは1960年代末頃から1992年にかけて本当にあった暴走族でかなり歴史は古いんですね。
暴走族の最盛期と言われていた1970年代の時にマッドスペシャル、上町小次郎、鬼面党と一緒になって暴走族の連合体の関東連合を組成しました。
1970年代の末には2000人以上の暴走族となっていて総本部を国立市から新宿区へ移しています。
東京都内以外にも千葉県、神奈川県、茨城県や静岡県、愛知県にもありました。
1980年代には世田谷区の下北沢が総本部となっていましたが1992年の25代目総長の時をもって総本部は解散しています。
氷室さんは高校生のときに暴走族のブラックエンペラーに入ったようですがすぐにやめてしまったそうです。
組織の1人というのが受け入れられなかったようで氷室さんにはあわなかったようですね~
歌手じゃなきゃ暴力団になっていた!

音楽やってなかったら、ヤクザになっていたとラジオ番組でBOØWYのマネージャーだった土屋さんが証言していました。
氷室さん自身もこの言葉には否定はしていなくて人生とはわからないもんですね。
だからこそボウイが人気になった理由でもあるのかもしれません。最底辺から成りあがっていく姿は大衆の心を掴んで身近な存在に感じられますからね。
BOØWYの前に参加していたバンド『スピニッヂ・パワー』

ボウイを最初に立ち上げたのが氷室さんでギタリストの布袋寅泰さんに声を掛けてBOØWYとなっていきました。
1982年のアルバムのデビューから数年間はバンド活動だけでは生活が出来なかったために各メンバーはアルバイトを掛け持ちしていました。
そのBOØWYを結成する前に氷室京介さんが寺西修一という本名で参加していたバンド名がスピニッヂ・パワーです!6人組の音楽バンドです。
氷室京介さんはスピニッヂ・パワーには自分から加入した訳ではなくて当時、契約を結んだ音楽事務所の株式会社ビーイングの創立者の長戸大幸社長からの命令によるものでした。
氷室さんが3代目のボーカリストとしてスピニッヂ・パワーに在籍した期間は1980年の約半年間だけとなっています。
どうやらあまり人気が出なかったようなのです。スピニッヂ・パワーのメンバー6人は音楽的共通項も無いバンドであまりうまくいってなかったようですね~
そういった苦い経験をしてからボウイが誕生しています。氷室さんが当時の経験をしていたからこそ自分で納得のいくメンバーを集めていったんでしょうね。
ボウイは伝説的なバンドとなりましたが最初からすべて上手くいってなかったことがわかります。それどころかボウイも長くは続かず結局は解散をしてしまいました。
それだけもの凄い才能が例え集まったとしてもそれぞれの個性や実力が有りすぎるために長くも続かなかったんでしょうね…
現在でもボウイの再結成の話題は出てきますが近い将来にも再結成されることはあるんでしょうか?注目していきたいと思います!
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